Metropolitan Police

手記「贖いの日々」

これは、飲酒と車の運転に対しての甘い考えが取り返しのつかない悲劇を引き起こし、被害者や遺族の方々の人生を狂わせたばかりでなく、自分の家族等周囲の人生をも狂わす結果となった交通事故の加害者が、市原刑務所服役中に執筆した手記1編を掲載したものです。

もう逃げてはいけない

冬の寒い金曜日でした。私は、数年ぶりに友人達と再会の約束があり、仕事を終えた午後6時過ぎに待ち合わせ場所へ向かいました。久し振りの会食は、とても賑やかで時間を忘れるほどでした。酒量も普段より多かったかもしれません。気が付くと時計は終電の時刻を過ぎており、私は同じ方向へ帰る友人とタクシーを使うことにしました。当時私は、自宅から最寄り駅までの約2㎞を自家用車を使い、そこから電車に乗り換え30分ほどかけて通勤していました。

この日はタクシーを待つ行列は長く、1時間ほど並びました。ようやく私達の番になり、まず友人宅へ向かいました。そして友人と別れたその後、一人になった私が運転手さんに告げた行き先は、自宅ではなく自分の車が駐車してある最寄り駅でした。友人の前ではこのままタクシーで帰宅するような素振りを見せながら、「寒空の下、タクシー待ちで酒も抜けただろう。いつも通るちょっとの距離だから大丈夫」などと自分勝手な言い訳を心の中で呟き、とうとうハンドルを握ってしまいました。

そこは、見通しの良い直線で、鉄道と交差する高架橋でした。今思うと、その時の私は漫然とただ前を見て運転しており、目の前よりもずっと先にある高架の山を越えた信号の方に気が向かっていました。凍えるような寒さの深夜に、まさか高架橋を人が歩いて渡っているなどという危機意識は私の頭の中にはなく、気が付いた時には人の後ろ姿が目の前でした。ブレーキを踏む間さえない体当たりでした。車を停め、後ろを振り返りましたが人影はありません。「とんでもないことをしてしまった。間違いなく会社はクビになる。」 その時頭に浮かんだのはそんな自分のことばかりで、私が傷つけてしまった人のことを考える余裕などありませんでした。やがて後続車がやってきました。1台、2台と私を追い越していきましたが事故に気付いた様子もなく、私の車を不審に思うでもないように高架を越えた先で信号待ちしているように見えました。「誰も見ていない。このまま逃げてしまおう。」突然訪れた抱えきれない責任の重圧に頭の中はパニック状態になり、そのままそこから逃げ出してしまいました。

私が殺してしまった方は、私より1つ年上の会社員の方でした。酒宴の帰りでタクシーがつかまらず、歩いて帰宅される途中だったということを後で聞きました。私が傷一つなく生き残っていることに、深い罪悪感を感じました。生命を落とすべきは飲酒してハンドルを握った私の方だったのにと。

被害者の息子さんと私の娘は、同じ小学校に通う同学年でした。私の家族はすぐに転居を余儀なくされ、半年ほど過ぎたところで妻から離婚届が刑務所に送られてきました。2つの家族を一瞬のうちに破壊し、残された2人の母親と4人の子ども達の心に大きな傷を与えてしまいました。

こうして自分のしたことを振り返ると、背筋が寒くなります。自分はなんと愚かで醜い心の持ち主なのだろうと、恥ずかしくて悔しくてなりません。私が起こしたことは「交通事故」では済まされない、自動車という凶器を自分勝手に振り廻した「交通犯罪」です。

まさか自分が犯罪者になろうとは想像もしていなかったのです。

つぐないの碑の写真(昭和53年3月市原刑務所の所在する地元の民間協力者により刑務所内に建立され、ここで交通事犯の被害者の供養が行われる)

まもなく3年が経ちます。出所の日が近づいてきました。事件直後、私は目の前にある現実を受け入れることが出来ず、逃げてしまいました。そして、刑務所という現実社会から隔離された場所で世間の厳しい風から守られてきました。けれどこれからはもう逃げません。自らの罪をしっかりと心に刻み、果たすべき責任をきちんと抱えていきます。何をすれば責任が果たせたと言えるのか分かりません。どんなに謝罪してもご遺族の悲しみや怒りが消えることはないでしょう。それでも私に出来ることは何なのか、ずっと探し続けて生きていく覚悟でいます。

今日も悲惨な交通死亡事故が起きてしまっています。こうした報道を見るたびに胸が苦しくなります。私と同じような過ちを犯す人が二度と現れないことを心から願っております。

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